”運動音痴”の治し方

日経ビジネスオンライン

 「運動神経がいい」という言い方がありますね。これに関わるのは、脊髄にある「運動ニューロン」という神経細胞です。しかし、運動ニューロンが運動スキルの発現に直接的に関与しているのかといえば、それも違います。運動ニューロンは、脳からの指令を筋肉に伝えるだけですから。運動ニューロンという神経細胞がスキルの中心部分ではないのです。

 着目すべきは、脳におけるニューロン同士の接続部である「シナプス」です。シナプスは情報伝達を行っていますが、この働き方が運動上手な人と下手な人とでは違うのではないかと考えられます。

・熟練にはプログラムのアップデートが必要

−−筋骨ならまだしも、シナプスとなると目に見えず実感も得られません。運動スキルを高めるために、「シナプスを鍛える」ことはできるのでしょうか?

柳原:それには運動スキルに関わりの深い小脳について説明する必要があります。運動には小脳が重要な関わりをしています。実際、小脳に障害があると平衡感覚を保てない、歩行がうまく行えない、ボールをうまく投げられないなど、いろいろな症状が出てきます。

 大脳と小脳は幾重にもなるループ回路をもっていて、このループ回路によって運動のプログラムが成立すると考えられます。つまり、運動を形成するプログラムは脳にあって、その善し悪しを決めているのは、シナプスを介した小脳と大脳の機能的な連関というわけです。

−−要は、脳内を情報がループする中で運動プログラムが形成される。そのループに重要な役割を担うニューロンをつなぐシナプスが、運動スキルを左右しているというわけですね。

柳原:ええ。アスリートの体を見ると、丈夫な筋肉が目立ちますが、実際に難しい運動を行っているのは脳ということです。

 私が「小脳が運動に重要」と話したのは、小脳が筋活動の時間的・空間的順序や多くの筋肉の協調性に重要な役割を果たしているからです。

−−そうなると、脳がいかに運動プログラムを精度高く組み立てられるかどうかが、運動音痴を克服する鍵ということですか?

柳原:はい。例えば、ゴルフが上手い人のスウィングを真似ても、ある程度は再現できますが、あくまで“見よう見まね”に過ぎません。脳の中で精度の高いプログラムが作成されていないからです。熟練するには、その動作に関わる四肢・体幹の筋活動が脳内でプログラム化され、さらにそれらが状況に応じてアップデートされていかなければなりません。

 習いはじめは、誰しも誰かの動きを真似ますが、自分と他人は違うので、同じようにしているつもりでも同じ動作ではありません。自分にとって最適な動きを獲得する過程こそが重要なのです。

・脳には“フィードフォワード”力がある

−−熟練していく過程で、最適な動きをどう獲得しているのでしょうか?

柳原:たとえば、プロのピッチャーは150キロくらいの速いボールを投げますが、手先そのものも150キロ以上のスピードが出ています。

 そのとき「どれくらい力を入れたらいいか」や「いつボールを放すか」といった感覚に関する“フィードバック”の情報を使って運動指令を行うとしたら、時間がかかりすぎてしまいます。感覚フィードバック情報が運動指令に変換されるのには、30分の1秒くらい必要です。150キロ以上のスピードで動いている投手の手先は、30分の1秒後には、1メートル以上も前に動いていることになってしまう。

 人は最適な運動にあたって、感覚フィードバックを使っているのではなく、あらかじめ目標値を決め、運動に落とし込む“フィードフォワード”の制御を行っています。

−−「フィードフォワード」ですか。

柳原:そうです。フィードフォワード。「脳からの出力によって動作の内容を事前に決めておき、それを実行することによってシステムを直列的に制御する」という意味です。

−−難しくなってきたので、少し整理させてください。極端な言い方をすると、感覚フィードバック情報に基づく運動は、「腕の位置はこのあたりかな」「もう少し、足を上げるんだっけ」など、いちいち反省しながら運動する。対して、フィードフォワード制御は、勘というか予測をそのままなぞるような運動と考えていいですか?

柳原:ええ。握手する際、私たちは、いちいち「どのくらいの力を入れればいいんだっけ」なんて考えませんよね。自分の出す力を予測し、どれだけの力を入れたら、相手からどの程度の力が返ってくるかわかっているのです。

 スポーツでは、予測と出力された運動の精度をあげるのがスキル向上につながります。最初は視覚や触覚を使った感覚フィードバックに頼っていても、練習を繰り返すうちに、小脳によって自動的に運動が行われるようになります。フィードフォワード指令ができあがり、無意識のうちに運動を制御して、的確に行えるようになると、同時に自分の出力を予測できます。
動作の反復が脳の可塑性を高める

−−感覚フィードバックからフィードフォワードに変わるとき、脳の中で何が起きているのでしょうか?

柳原:「学習」が起きています。たとえば、扱うものがバットならば、その動特性を事前にわかっていなければなりません。また、学習の条件には、「いま行ったことは間違いだった」という誤差情報が必須です。

 ダーツをするとき、通常は矢が中心より右に行ったら、「今度は少し左に投げよう」とするわけです。でも、左右が逆転する“プリズム眼鏡”をかけて行うと、本当は矢が右に逸れたのに、眼には左に行ったように見える。そこで被験者は、1回投げるごとに本当の世界とは左右逆の感覚で軌道を修正していくわけです。これが、誤差情報を得てプログラムを修正する「学習」の状態です。

 では、プリズム眼鏡を外したらどうなるか。その学習内容はなくなるかというと、なくならないんですね。左右逆から左右正常に戻っているはずなのに、「左に行くように修正しよう」と矢を投げても、右に逸れてしまう。

 つまり、視覚が正常に戻っても、脳の中のプログラムに前の影響が残っているのです。

−−誤差情報の利用という学習過程を経て、プログラムが精巧になり、記憶・状況に応じて改変される。すなわち、絶えず学習によってプログラムが適応的に更新されていく能力を脳はもっているわけですね。

柳原:そうです。それを「シナプス可塑性」といいます。最初は感覚フィードバックに頼って誤差を修正していますが、練習を繰り返すうち、小脳によって無意識的、自動的な運動が行われるようになるのです。それが運動スキルの向上です。

 試行錯誤しながら、そこで生じた誤差情報を積極的に利用してシステム全体を適応的に更新していく。これが反復練習であり、脳におけるニューロンニューロンとの間のシナプス可塑性によって成し遂げられるものなのです。